最寄り駅から旅館までの道すがら、粉雪がひっそりと舞い始めていた。遥はマフラーに口元を埋めながら、しんと冷えた空気を肺いっぱいに吸い込む。都心の編集プロダクションで働き始めて七年、こうしてひとりで遠出をするのは久しぶりだった。年末進行をどうにか乗り切った自分へのご褒美として、以前から気になっていた山あいの温泉宿を予約したのだ。
帳場で迎えてくれたのは、白髪まじりの女将と、その後ろに立つ若い仲居だった。歳の頃なら二十代半ばといったところか、短く切った黒髪に濃い眉、すっと通った鼻筋のせいで、柔和な笑みの奥に芯の強さが滲んでいる。名札には「颯」とだけ書かれていた。
「お荷物、お持ちします」
颯はそう言って遥のボストンバッグを軽々と抱え、廊下を先に立って歩く。浴衣に紺の半纏を羽織った背中は思ったよりがっしりとしていて、首筋の線が妙にきれいだった。遥はその後ろ姿をぼんやり眺めながら、自分より五つも年下だろうかなどと考えていた。
部屋はこぢんまりとした和室で、窓の外には雪化粧をした庭が広がっている。颯は手際よくお茶を淹れ、浴衣のサイズを確認し、夕食の時間を伝える。その所作のひとつひとつがていねいで、声は低く落ち着いていた。
「何かございましたら、遠慮なくお申し付けください」
颯が一礼して部屋を出ていったあと、遥はしばらく窓辺に座り込んで雪を眺めていた。静かだった。テレビもつけずにいると、かすかに川の音が聞こえてくる。ああ、ひとりで来てよかった、と遥は素直に思った。
夕食は部屋食で、地元の山菜や川魚を中心にした献立が並んだ。颯が一品ずつ運んでくるたびに、遥はつい箸を止めてしまう。どれも見た目からして手が込んでいて、口に運ぶと素材の味が驚くほど素直に広がるのだった。
「お口に合いますか」
「とてもおいしいです。私、こういうの好きで」
「それはよかった」
颯はほっとしたように目を細めた。その笑い方が妙に子どもっぽくて、遥は思わず見入ってしまう。年の差なんて気にしたこともなかったのに、こうして正面から顔を見ると、彼の若さがまぶしく感じられた。
夜が更けるにつれて、雪はいよいよ本降りになった。遥は部屋の露天風呂に何度か浸かったものの、どうにも眠れそうになくて、夜中にそっと廊下へ出た。大浴場は確かこのまま廊下を突き当たって右だ。暖簾をくぐり、脱衣所で浴衣を脱ぐ。深夜の大浴場は無人で、湯けむりだけがもうもうと立ちこめていた。
ガラス戸を開けて外に出ると、冷たい空気が肌に刺さる。内風呂とは別に、岩組みの露天風呂が広がっている。湯の表面には雪がはらはらと落ちては溶け、あたりはぼんやりと青白く光っていた。空を見上げると、厚い雲の切れ間から月がのぞいている。遥はそっと湯に浸かり、ふう、と息を吐いた。肩までじんわりと熱がしみこんで、凝り固まっていた背中の筋肉がほどけていく。
そのとき、脱衣所のほうでかすかな物音がした。
はっとして振り返ると、ガラス戸の向こうに人の影がある。男だ。胸板が厚く、腰に手ぬぐいを巻いただけの姿で、こちらに気づいて足を止めている。月明かりに照らされたその顔を見て、遥は思わず声を出しかけた。
「颯さん……?」
「すみません、まさかお客様がいらっしゃるとは思わなくて」
颯はばつが悪そうに頭をかいた。営業時間はとっくに過ぎている。従業員が入浴するならこの時間帯だろうと遥にも察しはついたが、それでも心臓は早鐘を打っていた。湯けむりのせいで互いの輪郭がぼやけているのが、かえって生々しかった。
「私こそ、勝手に入ってごめんなさい。眠れなくて」
