森が息を呑む、そんな夕暮れだった。
リュシエルは摘んできた薬草を麻袋から取り出しながら、かすかな違和感に手を止めた。この百年、誰も足を踏み入れなかった結界の境界が、ほんのわずかに揺らいでいる。銀髪を耳の後ろに流し、長い指で杖を握ると、彼女は音もなく苔の上を滑るように走り出した。
樫の古木の根元に、血の匂い。
鎧を着けた男がうつ伏せに倒れていた。肩口から背中にかけて深い裂傷があり、血が黒ずんだ土に染み込んでいる。人間だ。しかも、王国の紋章を胸に刻んだ騎士だった。リュシエルは瞬時に周囲の気配を探ったが、追っ手の姿はない。
「こんなところまで、よく生きてたどり着いたものだ」
彼女は呟きながら男の体を仰向けにし、その顔を見て少しだけ息を止めた。陽に焼けた額、意思の強そうな眉、苦痛にひきつりながらも整った唇。三十年ぶりに間近で見る人間の男は思いのほか若く、そして不思議なほど安らかな寝顔をしていた。リュシエルはためらいを振り切るように杖を一振りし、風の精霊に命じて男の体を浮かせると、自分の庵へと歩き出した。
庵は巨木の洞を拡げて作られた住まいで、中は薬草の香りと乾いた木の匂いに満ちている。炉の火を強く焚き、リュシエルは男の鎧を外した。鎖帷子の下の肌着も血で固まっている。小さな短剣で布を断ち切りながら、彼女は傷の具合を確かめた。刃物による傷だが、幸い毒は塗られていない。ただし出血がひどい。
「熱を持っているな」
額に手を当てれば、人間の体温の高さがエルフの冷たい指に伝わってくる。彼女は棚から数種の薬草を取り出すと、乳鉢で素早く練り合わせ、傷口に塗り込んだ。男がうめき、身をよじる。
「動くな。痛むのは治っている証拠だ」
リュシエルの声に反応したのか、男の瞼が震え、ゆっくりと開かれた。瞳は深い青で、焦点が合うまでにしばらくかかった。
「……ここは」
「私の家だ。お前は森の境界で倒れていた。名は」
男はしばらく彼女の尖った耳と透き通るような銀髪をぼんやりと見つめ、かすれた声で答えた。
「アルド。王国騎士団、第三師団所属……」
「人間の戦いに興味はない。今は傷を治すことだけ考えろ」
リュシエルはそう言って立ち上がり、鍋に湯を沸かしにかかった。背中に感じる視線。アルドは黙って彼女の動きを追っている。警戒というより、何かを確かめるような目だった。
「エルフが人間を助けるとは思わなかった」
「私もだ。たまたま機嫌が良かったんだろう」
彼女は振り返らずに答えたが、その声には自分でも気づかない柔らかさが混じっていた。
