由紀が最後のレッスンを終えて楽屋を出たのは、開演四十分前のことだった。ホールの裏廊下はまだひっそりとしていて、遠くで誰かが音階をさらうピアノの音だけがかすかに響いている。由紀は胸元のブローチを直しながら、今日の出演者たちの顔を思い浮かべていた。教え子が三人、それぞれ大人の奏者としてこの舞台に立つ。それを客席から見守るのは、教師冥利に尽きるというものだ。
「由紀先生」
不意に名前を呼ばれて、由紀は振り返った。廊下の曲がり角に、ダークスーツを着た若い男が立っている。長身で、肩幅が広くて、前髪を少し横に流した髪型。一瞬誰だかわからなかった。でも、その目が笑った瞬間に、記憶がぱっと開く。
「陽向くん」
声に驚きが混じった。彼は音大の大学院で作曲を専攻しているはずで、今日のプログラムには名前がなかったのだ。陽向は少し照れたような顔で近づいてきて、由紀の前で立ち止まった。かつて中学生だった彼は、今では由紀より頭ひとつぶん背が高い。
「お久しぶりです。今日、客席にいらっしゃるって聞いて、どうしてもご挨拶したくて」
「聞いてって、誰に」
「佐伯先生です。楽屋でばったりお会いして」
佐伯は由紀の大学時代の先輩で、今日のコンサートの企画者だ。なるほど、と由紀はうなずいた。陽向は五年前まで由紀の教室に通っていた生徒で、手が大きくて、バラードが好きで、ペダルの使い方がとても繊細だった。高校に入ってからは受験を理由に教室を離れてしまったけれど、音大に進んだことは風の便りに聞いていた。
「元気にしてた? 院生って忙しいでしょう」
「まあ、それなりに。でも作曲してると、やっぱり演奏の感覚も大事で、最近またピアノをちゃんと弾き始めたんです。それで、先生のことをよく思い出してて」
「私の?」
「はい。あの頃、先生が言ってくれたこと、今になってわかることが多くて」
陽向の声は落ち着いていて、昔の少し舌足らずな話し方はもうない。由紀は彼のネクタイの結び目がわずかに曲がっているのを見つけて、直してあげたくなったけれど、さすがにそれはやめた。
「今日はどの曲を聴きに?」
「後半のショパン。ソナタ三番を弾く子がいるの」
「いい曲ですよね。第四楽章のコーダ、僕あそこが一番好きです」
「私もよ。あの静かな爆発みたいなところ」
会話が途切れた。でもそれは気まずい沈黙ではなくて、むしろ互いの存在を確かめ合うような間だった。陽向が少し息を吸い込んで、それから思いきったように口を開く。
「先生、もしよかったら、終演後にどこかでお茶でも。前みたいに、音楽の話がしたいんです」
