金曜日の夜八時五十分、彩花は雑居ビルの四階にある「整体院 湊」のドアを開けた。今週だけで三度目の残業を終え、肩と首は鉄板でも入っているかのように硬くなっている。二週間前にやっと取れた予約は、最終枠の九時から。口コミサイトで予約の取れなさが話題になっている人気店で、たまたまキャンセルが出た枠に滑り込めたのだった。
「いらっしゃいませ、彩花さんですね」
カウンターに立っていたのは、白い施術着を着た長身の男性だった。年齢は三十代前半だろうか。短く整えた黒髪と、落ち着いた目元が印象的で、整体師というよりはどこか研究者のような雰囲気をまとっている。名刺を受け取ると、「湊健一郎」と印字されていた。この店の院長らしい。
「はい、予約していた田中です。あの、口コミでどうしても来たくて」
彩花がそう言うと、湊はわずかに口元を緩めてうなずき、問診票を差し出した。肩こりと首の張り、慢性的な眼精疲労。パソコン作業の多いOLにありがちな症状を書き込んでいく。湊はそれに目を通しながら、低く落ち着いた声でいくつかの質問を重ねた。デスクワークの時間、睡眠の質、週末の過ごし方。まるで生活全体を見ているような質問の仕方に、彩花は少し戸惑いながらも正直に答えていった。
「わかりました。では、うつ伏せでお願いします」
施術着に着替えてベッドに横たわると、部屋の照明が一段階落とされた。スピーカーからは波の音が小さく流れている。アロマの香りがほのかに漂い、一日の疲れが少しずつ溶けていくような感覚が彩花を包んだ。
「まず、触れていきますね」
湊の大きな手のひらが、彩花の背中にそっと置かれた。服の上からでもわかる体温が、じんわりと肩甲骨のあたりに広がっていく。彼はまず、背骨のラインをなぞるように指を滑らせ、筋肉の状態を確認しているようだった。
「右肩、かなり張ってますね。首の付け根も固いです」
湊の声は淡々としているのに、どこか気遣いを含んでいて、彩花は「はい、もうずっとで」と短く返した。指が肩に移動し、ゆっくりと圧が加えられていく。痛気持ちいい、と表現するのが正しい感覚だった。凝り固まった筋肉の芯に、湊の指がじわじわと入り込んでくる。彩花は思わず小さく息を吐いた。
「痛いですか」
「いえ、大丈夫です。むしろ気持ちよくて」
正直にそう言うと、湊は「それはよかった」と短く答え、さらに圧を強めていった。肩から首の付け根へ、そして背中の中央へ。彼の手は迷いがなく、それでいて乱暴さは微塵もない。筋肉の一本一本を解きほぐすように、丁寧に、しかし確実に凝りをほぐしていく。
彩花の意識は、次第に湊の手の動きだけに集中していった。親指で押され、手のひら全体で揉まれ、ときには肘まで使って深い圧がかけられる。そのたびに、凝り固まっていた部分が少しずつ緩んでいくのを感じる。
「うつ伏せのまま、少しだけ腕を上げてもらえますか」
湊の指示に従い、彩花は両腕を頭の横に置いた。すると、肩甲骨の間にある凝りがよりはっきりと浮き出たのか、湊は「ここです」と言って、ピンポイントで親指を押し込んできた。
「あ、そこです……すごく凝ってます」
彩花が思わず声を上げると、湊は「ここは眼精疲労とも関係している場所です」と説明しながら、円を描くようにゆっくりと指を動かした。痛みと気持ちよさが同時に押し寄せ、彩花はシーツをぎゅっと握る。湊の指は、まるで筋肉と対話しているかのようだった。押す強さ、緩めるタイミング、すべてが絶妙で、彩花の身体は自然と彼の手に委ねられていく。
「だいぶ緩んできましたね。最後に、仰向けになって首を施術します」
