窓の外はとっくに暗くなっていて、階下を走る車の音だけが時折、静まり返ったフロアに届いていた。壁際の非常灯が淡く通路を照らす中、美咲は自分のデスクに戻る足を止め、大きくひとつ息を吐いた。肩が凝っている。首の後ろに手を当てて軽く揉むと、固まった筋がごりごりと音を立てそうな気がした。
「健太、今日は本当に悪かったわね。終電、大丈夫そう?」
斜め向かいの席で伝票をまとめていた健太が顔を上げる。ネクタイを少し緩めた姿は、すでに九時間以上この場所に縛り付けられている疲れを隠せていなかった。それでも彼は、美咲の問いかけに柔らかく笑ってみせる。
「大丈夫です。この量なら、あと三十分もあれば終わりますから」
「そう。でも無理はしないで。明日の朝イチで会議があるのは、私もあなたも同じなんだから」
美咲はそう言って、手に持ったマグカップを軽く掲げた。給湯室でコーヒーを淹れてくるつもりだった。健太がどうぞ、と目だけで応える。その視線がやけに優しくて、美咲は少しだけ居心地が悪くなる。いつもなら、こんなふうに部下の気遣いを受け取ることなどほとんどない。仕事中は常に指示を出し、進捗を確認し、時には厳しい言葉で背中を押す側だ。それが課長という立場であり、自分が選んだ振る舞いでもあった。
給湯室の小さな電気だけが、オフィスの一角に白く浮かび上がっている。美咲はコーヒーメーカーのスイッチを入れ、カップに注がれる黒い液体を見つめた。ふと、昼間の会議で部長に詰められた場面が蘇る。今期の数字が思うように伸びていない、課としての対策を早急に示せ、と。確かにその通りだ。けれど、あの場にいた誰も、現場が抱える細かな問題には目を向けていない。美咲は唇を引き結び、カップを手に取った。
デスクに戻ると、健太が書類を片付け始めていた。その手際は丁寧で、残っている仕事は思ったより少ない。彼は美咲のカップを見て、小さく首を傾げた。
「課長、それブラックですか」
「ええ。眠気覚ましにはこれが一番」
「でも、こんな時間に飲むと胃にきますよ。前も夕方に飲んで、気持ち悪くなったって言ってたじゃないですか」
言われてみれば、この前の残業のときもそうだった。美咲は苦笑しながら椅子に座る。デスクの上には、まだ目を通さなければならない企画書が山のように積まれていた。明日の会議までに、せめて要点だけでも整理しておかなければならない。
「大丈夫よ。今日は本当に終わらせないといけないの」
美咲はカップを口元に運び、熱いコーヒーをひと口含んだ。胃のあたりに熱が落ちていく。ふと目を上げると、健太がこちらを見ている。その表情は、心配そうな色を帯びていた。
「課長、少し休んだほうがいいですよ。ずっと昨日も遅くまで残ってたでしょう」
「あなたこそ、昨日も残ってたじゃない」
「僕は平気です。男ですし、体力ありますから」
その言い方が妙に幼くて、美咲は思わず笑ってしまった。健太は一瞬驚いたように目を丸くし、それから照れたように視線を落とす。普段の仕事中には見せない表情だった。こうして二人きりで話すのも、改めて考えれば珍しい。いつも周りには誰かがいて、会話の中心は仕事の話ばかりだ。
美咲はカップを置き、深く息を吸った。肩の力が抜けない。何か言いたいことが喉の奥に詰まっているような、妙な感覚があった。それを無理に飲み込むと、今度は胸のあたりが重くなる。
「健太」
