梅雨が明けたばかりの休日、マンションの廊下はむっとする熱気に包まれていた。涼子は玄関に届いたままになっていた大きな段ボール箱を眺め、ため息をつく。夫の昇進に伴ってこの街へ引っ越してきたのは三週間前で、まだ段ボールの山がいくつも残っている。夫はその翌週から地方出張が続いていて、帰宅するのは早くても来週の水曜日だと言っていた。ダイニングテーブルも本棚も、組み立て式の家具はすべて涼子が一人で組み立ててきたが、今回届いたリビングボードだけは板が大きく、説明書を見ただけで気が遠くなった。
「一人でやるのは無理かな」
涼子は独り言をつぶやき、冷たい麦茶を一口飲んだ。窓の外では蝉が鳴いている。エアコンの風が首筋を撫でると、汗で張りついた襟元がひんやりして少し心地よかった。ちょうどそのとき、隣の部屋の前で若い男性が段ボールを運んでいるのが玄関ドアの覗き穴越しに見えた。二週間ほど前に越してきたばかりの会社員で、確か挨拶に来たときに「大地」と名乗っていた。細身だが肩幅があり、Tシャツの袖から伸びる腕は日に焼けていた。
「すみません、ちょっとお願いしてもいいですか」
涼子は玄関を開けて声をかけた。大地は驚いたように振り返り、少し汗ばんだ顔で「はい」と答える。背が高く、廊下の天井に届きそうなほどで、涼子は思わず一歩下がりそうになるのを堪えた。
「実は夫が出張中で、家具の組み立てに手こずっていて。力のいる作業がどうしても一人では難しくて」
「ああ、いいですよ。今ちょうど一段落したところなので」
大地は快く引き受けてくれた。涼子は彼を室内に招き入れる。部屋の中は段ボールがいくつか残っていて、生活感がまだ薄い。大地は「すごく広いですね」と素直に言い、リビングの中央に置かれた大きな板や金具の袋を見て「これ、結構大変なやつですね」と笑った。
「冷たいものでも飲みながら、少し休んでからでいいから」
「いえ、大丈夫です。始めましょう」
大地は説明書を手に取り、部品を確認し始めた。涼子は麦茶をコップに注いで彼のそばに置く。組み立てが始まると、大地の手際は想像以上に良かった。長い板を支えるとき、二人は自然と近い距離になる。大地の汗の匂いと、涼子のつけている柔軟剤の香りが混ざった。
「ここ、上から押さえてもらえますか」
大地の指と涼子の指が一瞬触れる。若い男性の指は骨ばっていて、節がごつごつしていた。夫とは違う手の感触に、涼子の胸の奥が小さく音を立てる。彼女は慌てて視線を板に戻した。
それから三十分ほどで、リビングボードの骨組みはほぼ完成した。最後に背板をはめ込む作業で、大地が中に入り込んでネジを締める。涼子は反対側から板を押さえていたが、二人の顔がほんの数センチの距離まで近づいた瞬間があった。大地の呼吸が耳に届く。首筋から汗が一筋流れ、鎖骨のくぼみへと消えていくのが見えた。
「あの、大丈夫ですか。無理な体勢じゃないですか」
「大丈夫です。あと少しなんで」
大地の声は少し掠れていた。涼子は自分の心臓が早くなっているのを感じる。こんなことは初めてだった。夫以外の男性に、しかも十一歳も年下の隣人に、体の奥が熱くなるなんて。彼女は無意識に太ももをそっと閉じた。
作業が一段落すると、二人は床に座り込んだ。エアコンの風が生ぬるく感じるほど、部屋の空気は二人の体温で満たされていた。涼子は麦茶のおかわりを注ぎ、大地に手渡す。彼は一気に飲み干し、「うまい」と小さく言った。
「本当に助かりました。お礼に何かご馳走するので、夕飯でもどうですか」
涼子は言ってから、自分が何を言っているのかわからなくなる。夫のいない家に、若い男性を夕飯に誘うなんて。でも口にした言葉はもう戻せない。大地は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「いいんですか」と嬉しそうに笑った。
