金曜日の午後八時、オフィスビルの非常階段に立つ紫織の背筋は、まだ法廷の熱を帯びていた。今日は企業買収をめぐる仲裁で、相手方代理人の老練な弁護士を論破し、依頼者から深々と頭を下げられたところだ。黒のパンツスーツに包まれた体は、しかし、これから向かう場所のことを思うと芯から力が抜けていく。紫織はスマートフォンを取り出し、保存してある連絡先を開く。画面に浮かぶ「匡」の二文字を親指でなぞるように一度押すと、短いコールのあと、低く落ち着いた声が応じた。
「紫織か。いま終わったのか」
「ええ、たったいま。これからそちらに向かうわ」
「わかった。夕飯は軽く用意してある。風呂も沸かしてあるから、先に入れ」
「ありがとう。三十分ほどで着くと思う」
通話を終えると、紫織は一度だけ深呼吸をした。胸の奥に溜まっていた裁判の熱が、吐息とともに抜けていく。彼の声を聞くだけで、肩に乗っていた重たいものが静かにほどけていくのを感じる。週に一度、金曜の夜だけは、誰にも逆らえない弁護士という鎧を脱ぎ捨てる日だと、紫織は自分に言い聞かせるように歩き出した。
匡のマンションは、紫織の事務所から電車で二駅の場所にある。駅から歩く十分ほどの道のりを、今日はいつもよりゆっくりと歩いた。街路樹の銀杏が色づき始めていて、夜風に揺れる葉の音が心地よい。マンションのエントランスに着くと、オートロックを解除し、エレベーターで七階へ上がる。七一三号室の前で立ち止まり、チャイムを鳴らす前に、紫織はもう一度だけ呼吸を整えた。
ドアを開けた匡は、グレーのカットソーに黒いスウェットパンツという部屋着姿だった。一八五センチはある長身が、廊下の照明を背にして紫織を見下ろす。切れ長の目が静かに細められ、口元に淡い笑みが浮かぶ。
「よく来たな。上がれ」
「お邪魔します」
玄関で靴を脱ぎ、匡の後についてリビングへ入る。部屋の中は、彼の性格を表すように無駄なものが一切なく、整然としていた。ローテーブルには湯気を立てる味噌汁と、焼き魚、小鉢が二つ並べられている。匡は紫織のスーツの上着を受け取ると、ハンガーにかけてクローゼットにしまいながら言った。
「先にメシにするか、風呂に入るか、どっちがいい」
「お風呂、先に入らせてもらえるかしら。今日は長い一日だったの」
「そう言うと思った。着替えは脱衣所に置いてある」
紫織が浴室へ向かうと、脱衣所の棚には、彼女のサイズに合わせた生成りのガウンと下着がきちんと畳んで置かれていた。匡が用意してくれているのは、この部屋に通い始めてからずっと変わらない。紫織はスーツを脱ぎ、下着を外して洗濯機の上の籠に入れると、熱めのシャワーを浴びた。湯が首筋から背中を伝い、張り詰めていた筋肉が少しずつ弛緩していく。
湯船に浸かりながら、紫織は目を閉じた。今日の仲裁で相手方代理人を追い詰めた場面が、まぶたの裏に浮かぶ。証拠の矛盾を突いた瞬間の、あの静かな高揚感。法廷では常に主導権を握り、誰にも隙を見せず、相手を屈服させることに喜びを覚える自分がいる。けれど、その反動のように、週末はすべてを誰かに委ねたくなる。匡という男に、すべてを明け渡したくなる。紫織は湯の中で、自分の指先が無意識に唇へ触れていることに気づき、はっとした。
浴室から出てガウンを羽織り、リビングへ戻ると、匡はソファに座って本を読んでいた。紫織の濡れた髪を見て、匡は立ち上がり、ダイニングテーブルの椅子を引いた。
「座れ。冷めないうちに食べろ」
「いただきます」
二人で向かい合って食事をする。匡の作る味噌汁は、出汁がきいていて、紫織はいつも三口目でようやく息をつく。焼き魚は銀鱈で、身がふっくらと柔らかい。食事のあいだ、匡は仕事の話を根掘り葉掘り聞いたりはしない。紫織が話し始めれば聞くし、黙っていれば黙ったままでいる。今日は紫織のほうから、自然と今日の仲裁のことを話していた。
