夜勤明けの空気は、病院のどこを歩いても薄く濁って感じられる。朝比奈はナースステーションの端で最後の申し送りを終えると、白衣のポケットに手を突っ込んだまま廊下へ出た。窓の外はもう白み始めている。今日は、というより今朝は、三件の急変対応と二件の家族説明をこなした。肩のあたりに重い疲れが溜まっていて、首を回すと小さく骨が鳴る。
それでも足は自然と、病棟の奥へ向かっていた。リハビリ室の前を通りかかったとき、中の明かりが点いているのに気づく。消し忘れかと思い、ドアに手をかけた。
「あれ、先生」
声のした方を見ると、窓際の平行棒のそばに陸が立っていた。右腕を三角巾で吊り、病衣の上に薄いカーディガンを羽織っている。朝比奈は少しだけ目を見開いてから、ゆっくりと室内へ足を踏み入れた。
「眠れなかったの」
「ちょっと目が冴えちゃって。看護師さんに、リハビリ室なら静かだって聞いたんで」
陸は軽く肩をすくめた。骨折で入院してから十日ほど経つが、もともと骨格のしっかりした体つきをしているせいか、病人らしい弱々しさは薄い。朝比奈は彼の右腕に視線を走らせ、それから壁際の長椅子に腰を下ろした。
「痛みは」
「今日はまあ、普通に痛いくらいです。夜になると脈打つ感じがして、それが続くと眠りにくいんですけど」
「鎮痛剤、追加で使ってもよかったのに」
「我慢できる範囲なら、あんまり薬に頼りたくないっていうか。仕事でも、痛み止めを飲みながら動くのは好きじゃなかったんで」
陸の声は低く、静かな室内によく通る。朝比奈は白衣の裾を整えながら、彼の言葉の端に残る職業的な匂いに気づいた。聞けば、スポーツジムのトレーナーをしているらしい。体の使い方や痛みの付き合い方について、患者にしてはやけに達観した言い回しをするのは、そのせいだろう。
「先生こそ、もう上がりですよね。なんでこんなとこに」
「通りかかっただけ。明かりが見えたから、消し忘れかと」
「ああ、邪魔でしたか」
「邪魔じゃないわ。ただ、消灯時間は過ぎてるから、本当はあんまり良くないの」
朝比奈は笑みを浮かべたが、咎めるような口調にはしなかった。陸もまた、悪びれずに小さく笑う。窓の外では、夜明け前の藍色が少しずつ薄くなり、街の輪郭が浮かび上がり始めていた。
「戻りますよ。先生に言われちゃ、さすがに居座れない」
そう言って陸が平行棒から手を離そうとしたとき、三角巾の結び目が引っかかったのか、彼の動きが一瞬止まった。朝比奈は立ち上がり、彼の背中側へ回って結び目を確認する。
「待って。少し曲がってる。直すから」
