置屋《松の井》の二階にある小夜の部屋は、まだ宵の口だというのにしんと静まりかえっていた。三味線の音も、どんちゃん騒ぎの声も、ここまでは届かない。小夜は鏡台の前に座り、白粉をはたく手を止めて、かすかに眉をひそめた。
「絵のモデル、ですか」
お内儀の話では、若い画家がどうしても小夜に頼みたいと言って聞かないのだという。名を清一郎といい、このところ展覧会で注目を浴びている洋画家らしい。いくらか包むからと頭を下げられて、お内儀も断りきれなかったようだ。
「いいじゃないか、座ってるだけで金になるんだから」
そう言われてしまえば、芸者風情が断れることでもない。小夜は苦笑いを浮かべながら、それでも心のどこかで、ほんの少しだけ興味が湧いている自分に気づいていた。絵描きという人種は、時に芸者よりも奔放で、時に芸者よりも繊細だと聞く。どんな男だろうか、と。
約束の日、午後の陽が障子越しにやわらかく差し込む時間に、清一郎は訪ねてきた。想像していたよりずっと若く、痩せぎすの身体に、少し大きすぎるような背広を着ている。目だけが異様にぎらぎらと輝いていて、小夜を見るなり、一歩下がってまじまじと眺めた。
「これは、これは」
清一郎はそれだけ言うと、しばらく言葉を失ったようだった。小夜はその無遠慮な視線に、かえって好感を持った。男たちはたいてい、もっと取り繕った目で見るものだ。
「あの、どこに座りましょうか」
「いや、まだ座らないでください。そのまま、その格好で」
小夜は着物のままだった。今日はお座敷がないので、派手すぎない小紋に博多の帯を締めている。清一郎は小夜の周りをゆっくりと歩きながら、時折キャンバスに目をやり、何かを測るように手をかざした。
「光が、ちょうどいい。斜めから射す春の光が、首筋に影をつくる。その影の濃さが、なんとも」
ぶつぶつと独り言のように呟く清一郎の様子が、小夜にはひどく新鮮に映った。芸者に向かってこんな態度を取る男は初めてだ。たいていの旦那衆は、もっとこう、所有物を扱うような目つきをする。けれど清一郎の目には、ただ純粋な、何かを掴もうとする飢えがあった。
「じゃあ、こうして立ってればいいんですか」
「そうです、そうです。そのまま。ああ、でも」
清一郎は言いよどんで、少し赤くなった。
「帯を、もう少し緩めていただけませんか。堅苦しくない、もっと普段の、寛いだ感じが欲しいんです」
小夜は少し笑って、帯の締めを緩めた。胸元がわずかに開き、襟から白い肌がのぞく。それを見た清一郎の目が、一瞬ぎらりと光ったのを、小夜は見逃さなかった。もちろん、ただの画家の目だろう。けれどその奥に、男の目があることも、芸者である小夜にはわかった。
絵を描く時間は静かに過ぎていった。清一郎はほとんど無言で、キャンバスに向かってひたすら筆を走らせる。小夜は立ち疲れてくると、自然に畳の上に座り込んだ。清一郎は何も言わなかった。小夜も、もう最初のように緊張はしていなかった。むしろ、見られることの心地よさを感じ始めていた。
二度目に清一郎が訪ねてきたのは、それから三日後の夕方だった。前回のデッサンを元に、色を乗せていきたいのだと言う。小夜は今日もお座敷がなく、部屋で寛いでいたところだった。清一郎を部屋に通すと、彼はすぐにイーゼルを立て始めた。
