黒いロングワンピースの裾が、磨き上げられた廊下の板床から五センチ浮いている。白いエプロンの胸元で結ばれたリボンが、すずの呼吸に合わせて微かに上下した。御堂隼人は上着の襟を指先で直しながら、彼女の背後三歩手前で足を止めた。
すずは振り返らない。雇い主の甥が戻ってきた気配を、耳の後ろの産毛で感じ取っている。彼女の両手は腹の前で重ねられ、指先がほんの少しだけ白くなっていた。
隼人が一歩近づく。磨いた革靴の底が床に触れる音が、廊下の端まで吸い込まれていく。すずの後頭部でまとめられた黒髪が、首筋に一本だけ張り付いている。そこから汗が一滴、白い襟元へ滑り落ちた。
「近いな」
隼人の声は低く、廊下の壁に反響する前に消えた。すずが首だけで振り返る。黒い瞳が隼人の胸元の高さで止まり、それ以上は上げない。
「申し訳ありません」
彼女は半歩後ろへ下がろうとした。左足の踵が床を擦る音がして、右足がまだ動かないうちに、隼人の右手が彼女の腰骨の真横に伸びた。指先が黒いドレスの布地へ触れるか触れないかの距離で止まる。
「雇い主が留守の間、そうやって立ってろと言われてるのか」
すずの喉が小さく上下する。前で組んだ指が一本ずつほどけていく。人差し指が親指の腹を押し、次に中指が手の甲を撫でた。これは返答に困った時に出る彼女の癖だった。
「いいえ。ただ、いつもより一歩近くに、と」
「誰に言われた」
「自分で、決めました」
隼人は上着のポケットに左手を突っ込み、右手をすずの腰の後ろへ回した。ドレスの布越しに、彼女の背筋がまっすぐ伸びているのが掌に伝わる。麻のエプロンが擦れる音と、彼女の呼吸が鼻から抜ける微かな音だけが廊下に残った。
「仕事の話をしに来たんだが、立ったまま聞くか」
すずは一瞬だけ目線を上げた。隼人の喉仏のあたりで止め、唇を開きかけて閉じる。開いた口の中から舌先が覗き、上の前歯の裏をなぞった。なんとなく、立ったまま胸の前で握った拳を解く。手汗が掌にじっとりと滲んでいた。
「聞きます」
「ここでか」
「ここで、お願いします」
隼人は背中に回した手をそのまま上へ滑らせた。肩甲骨の間の布地が手のひらに吸い付く。すずの肩がびくりと跳ねたが、足は動かさない。彼女の視線が床の一点に落ち、細い首筋の汗がもう一度、光を反射して流れた。
「主人が戻るまであと六時間ある。お前の仕事が終わるのは五時だな」
