葵が目を覚ましたのは、硬く冷たい石の床の上だった。ついさっきまで終電間際のオフィスで、明日の会議資料を直していたはずなのに、鼻先をかすめる空気は土と鉄の匂いがして、天井には見覚えのない幾何学模様が彫り込まれている。体を起こすと、スーツの上からひやりと冷たい空気が肌を滑り、自分がどこか広い石造りの部屋に横たえられていたことを知った。周囲には等間隔に青白い火が揺らめく燭台が並び、床一面に描かれた魔法陣がかすかに光っている。
「目が覚めたか、異界の娘よ」
低く落ち着いた声が頭上から降ってきた。葵が振り向くと、一段高い場所に設えられた玉座に、漆黒の衣をまとった青年が足を組んで座っている。外見は二十代半ばほどで、闇を梳いたような長い髪が肩のあたりでゆるく波打っていた。瞳は淡い紫に輝き、口元には感情の読めない微笑を浮かべている。頭には小さな銀の角が二本、月の光を受けたように鈍く光っていた。
「あなたが、私をここに?」
葵の声は自分でも驚くほど冷静だった。魔王はゆっくりと頷き、指先で空気をなぞるように動かす。すると葵の体はふわりと浮き上がり、抗う間もなく玉座の前へと導かれた。近くで見ると、彼の顔立ちは整いすぎているほど整っていて、人間離れした美しさがある。黒い衣の襟元からは鎖骨がのぞき、紫の瞳が葵の全身を値踏みするように、けれど品のある視線でゆっくりと這った。
「私はゼノ。この城の主であり、お前たちの世界で言うところの魔王にあたる。無理に呼んで悪かったとは思っているが、こちらにも切実な事情があってな」
ゼノは玉座から立ち上がると、葵の正面に立った。背は葵より頭一つ分ほど高く、近くに立つと彼の体から甘く重い香りが漂い、葵の思考をわずかに鈍らせる。香水とも花ともつかない、夜の森を煮詰めたような匂いだった。
「契約の儀式、というものを知っているか」
「いいえ。異世界の常識はわかりません」
「そうだろうな。単純に言えば、この世界に呼んだ者と俺の間に、魔力の結びつきを作る儀式だ。互いの肌に触れ、互いの熱を分け合う。それによってお前はこの世界の空気に体を慣らし、俺は失われた魔力の半分を取り戻す。何事も対価が必要な世界でな」
葵は半歩後ずさりながら、スーツの襟をぎゅっと握った。見知らぬ世界で見知らぬ男に体の接触を求められて、素直に応じられるはずがない。けれどゼノは葵の警戒を読み取ったように、紫の瞳をわずかに細めて首を振った。
「勘違いするな。俺は無理やりお前を抱くつもりはない。儀式とは言っても、まずは互いの肌に触れて魔力を通わせるだけだ。お前が嫌だと言うなら、この世界で生き延びる術すら得られずに終わるがな」
「それ、十分脅しになってますよ」
葵が低い声で言うと、ゼノは初めて口元をほころばせた。笑うと年齢よりも幼く見える表情に、葵の肩から少しだけ力が抜ける。彼は片膝をつき、葵の手をそっと取った。長い指は見た目よりも温かく、骨ばっていて、握り返す力は驚くほど優しかった。
「では、こうしよう。お前が俺を信じられるように、まずは俺がお前に触れる。お前はそれを拒んでもいい。拒まなければ、次はお前が俺に触れる番だ。それでも体が求めるなら、俺はお前の痛くないように、できる限り丁寧に事を進める。どうだ、異界の娘」
葵はしばらく彼の紫の瞳を見つめた。オフィスでは 二十七歳 にもなって、と言われる自分が、こんな非現実的な場所で、まるで物語の登場人物みたいな男に手を握られている。逃げ場はない。帰る方法もわからない。ならば、今ここで信じられるものを一つ選ぶしかなかった。
「……葵です。葵。あなたのことはゼノ、と呼ばせてもらいます。それで、痛くしないって約束してください」
「ああ、葵。いい名だ。約束しよう、俺の魔力が尽きない限り、この身はお前を守る」
ゼノは立ち上がると、葵のスーツの上着に手をかけ、ゆっくりと肩から引き下ろした。布ずれの音だけが静かな広間に響く。白いブラウスの上から彼の手が背中に回され、下着のホックのあたりを迷うように撫でた。葵は背筋を硬くしたが、逃げはしなかった。ゼノは葵の耳元に顔を寄せ、吐息が触れるほどの距離で囁く。
「怖くなったら、いつでも言え。俺はお前の返事を待つ」
