美紀は鏡の前で、自分の表情を引き締めた。深夜23時を回ったパーソナルジムには、最後の予約客である直人と二人きりだ。彼が入会してまだ一週間。日中は広告代理店で働いているらしく、この時間しか来られないと言う。
「今日は背中ですね。ケーブルマシンを使います」
美紀はウェイトスタックのピンを抜き、負荷を調整しながら説明を始めた。彼女の声はトレーニングルームの静寂に、やけに通って響く。直人はいつも通り、少し緊張した面持ちでうなずいている。34歳の彼は運動経験がほとんどなく、会社の健康診断で引っかかったのがきっかけで入会したという。
「ラットプルダウン、やったことあります?」
「いえ、ないです」
「じゃあ、まず私がやってみますね」
美紀はバーを握り、ベンチに腰を下ろした。肩甲骨を寄せるようにして引き下ろす動作を、三回繰り返してから立ち上がる。彼女の背中と肩の筋肉が、タンクトップの下で無駄なく動くのが直人にも見えた。
「どうぞ、座ってみてください」
直人がぎこちなくベンチに座り、両手でバーを握る。美紀は彼の真後ろに立ち、鏡越しにフォームを確認した。
「肩が前に出てますね。もっと胸を張って」
彼女は右手を直人の肩甲骨のあいだにそっと当てた。直人の背中がぴくりと反応する。
「ここを意識して、引き寄せる感じです」
直人は言われた通りにしようとするが、まだ動きがぎくしゃくしている。美紀は彼の右肩に手を添えたまま、左腕の肘の位置を直そうと前に回り込んだ。
「肘は真下じゃなくて、少し後ろに引くイメージです。こう」
彼女が直人の肘に触れて軌道を修正しようとしたとき、彼の腕がわずかに震えた。美紀の胸が彼の肩にふと触れる。彼女は気にせず続けようとしたが、直人が急にバーから手を離した。
「すみません」
直人はうつむいている。耳の後ろまで赤くなっていた。
「ちょっと、その、近くて」
美紀は一歩下がった。トレーナーとして五年目になる。男性会員の身体に触れることは日常の一部で、これまでも似たような場面は何度もあった。だが今夜の彼の反応は、妙に自分の中に引っかかるものを残した。
「すみません、俺、変な意味じゃなくて」
