金曜日の夜、仕事を終えて帰宅した慎吾がリビングのドアを開けると、いつもと違う空気が部屋に満ちていた。照明は間接照明だけが点いていて、ほのかにオレンジ色の光がソファとローテーブルを照らしている。テーブルの上にはワイングラスが二つと、まだ栓の抜かれていない赤ワインのボトル。そしてソファに座っていたのは、見慣れたはずの恋人だったが、その姿は慎吾の知らない女のようだった。
夏美は濃紺のシルクのワンピースを着ていて、肩が大胆に開いている。髪はいつものポニーテールではなく、ゆるく巻いて下ろしていた。耳元で揺れるピアスが光を受けてきらめき、彼女が顔を上げると、普段より濃いめのアイラインが慎吾を捉えた。
「おかえりなさい」と夏美が言った。その声はわずかに低く、まるで初めて会う男に話しかけるような、少しだけ距離のある調子だった。
慎吾は一瞬息を呑んで、それから自分もスーツの上着を脱ぎながら「ただいま」と返した。ネクタイをゆるめる指が、なぜか少し震えている。二人は昨日の夜、ベッドの中で話し合って決めたのだ。最近どうしてもセックスが作業的になっている、同じパターンの繰り返しで、お互いにそれを感じているのに見て見ぬふりをしている、と。それなら一度、すべてをリセットしてみよう。出会ったばかりの他人として、今夜だけは。
「俺、先にシャワー浴びてくる」と慎吾が言うと、夏美は「どうぞ」と短く答え、ワイングラスを手に取って光にかざした。その横顔には、いつもの親しさが消えていて、それが逆に慎吾の胸をざわつかせた。
浴室で湯を浴びながら、慎吾は心臓が早鐘を打っているのを感じていた。三年も一緒に暮らして、夏美のすべてを知っているつもりだった。朝起きて最初に飲むのは白湯だとか、機嫌が悪いときは右の眉がほんの少し上がるとか、そういう細部まで。なのに今、リビングにいる女は、まるで知らない誰かだった。それが怖いような、それでいてぞくぞくするような、奇妙な興奮が背筋を這い上がってくる。
彼がバスローブ姿でリビングに戻ると、夏美はもうワインを開けていた。二つのグラスに深紅の液体が注がれ、彼女はその一つを慎吾に差し出す。
「お名前、伺ってもいいですか」と夏美が言った。その言葉に、慎吾は思わず笑いそうになるのを堪えた。これはゲームなのだ。真面目にやらなければ。
「慎吾です」と彼は答え、グラスを受け取った。「君は?」
「夏美。金曜の夜に一人でワインを開けるような女よ」と彼女は言い、少し自嘲するように口元を歪めた。その仕種が妙に色っぽくて、慎吾はワインを一口含んでから、わざと彼女の隣ではなく、斜め向かいの一人掛けのソファに腰を下ろした。
「こんなところで何してるんですか」と慎吾は尋ねた。他人なのだから、詮索するのも不自然ではない。
「恋人と別れたの。いや、正確には、まだ一緒に住んでるんだけど」と夏美は言って、天井を見上げた。その作り話に、慎吾の胸がちくりと痛む。でも同時に、これはフィクションだとわかっているからこそ、その先を聞きたくなる自分もいた。
「どんな奴だったんですか」
「優しい人。でも、優しすぎて、最近は何を考えてるのかわからなくなってた。キスするときも、きっと私のことを考えてないんだろうなって、そう思うと虚しくなって」
慎吾はグラスを握る手に力を込めた。彼女の言葉は、作り話でありながら、あまりにも真実を突いていた。確かに最近、夏美にキスをしながら、明日の会議のことを考えていた夜があった。それを彼女は見抜いていたのだ。
「俺も」と慎吾は言った。「彼女と、なんていうか、空気みたいな存在になってて。大事なのに、大事にする方法を忘れてた」
二人の視線が絡む。オレンジの照明の下で、夏美の瞳がわずかに潤んでいるように見えた。
「ねえ」と夏美が言い、グラスをテーブルに置いた。「今日だけ、お互いに、誰か別の人にならない? 恋人に不満のある男と、恋人に不満のある女。それだけでいいから」
立ち上がった夏美が、慎吾の前に歩み寄る。その動きはいつもの彼女よりずっとゆっくりで、一歩踏み出すたびにワンピースの裾が揺れた。彼女が手を伸ばして、慎吾のまだ少し湿った髪に触れる。その指先がこめかみをかすめて、耳の後ろへと滑っていく。
「知らない人に触られるの、久しぶり」と夏美が囁いた。
