フェリックスは市川の深い眼差しから逃れるように、壁際の自販機へと歩み寄った。ラウンジには冷えた空気だけが沈み、窓の外では港を渡る風が低く唸っている。市川はそれ以上追及せず、ただゆっくりと長い脚を組み替え、フェリックスの背中を静かに見守っていた。
十分ほど言葉のない時間が過ぎ、フェリックスは市川に小さく会釈してからラウンジを後にした。市川は何かを言いかけた唇を閉ざし、その切れ長の瞳に一瞬だけ苦い光を宿らせる。彼はフェリックスを追わなかった。追うべき理由も、責める権利も自分にはないことを、市川は誰よりもよく知っていたからである。
自室に戻ったフェリックスは鍵をかけ、机の上の端末を開いた。暗号化された摘出予定表が再び画面に浮かび上がり、彼の琥珀の瞳が鋭く細められる。美和子の誕生日と一致する日付、彼女の個人識別番号らしき数字、そして患者コードと名目が空白のままの一行。フェリックスは椅子に座り直し、持ち帰ったデータの欠損部分を復元するための解析を始めた。
指先が端末の上を冷たく滑っていく。前回の潜入で奪えたのは全体の約七割、残り三割は暗号化されたまま手付かずだった。フェリックスはいくつもの復元アルゴリズムを試し、断片を繫ぎ合わせようとするが、データの壁は厚く、空白の行が誰を指すのかを特定するには至らない。彼は端末を閉じ、窓の外の暗い空を仰いだ。夜の闇は深く、海からの湿った風が建物の外壁を撫でていた。
その夜、フェリックスは再び聖マリア記念総合病院へ向かう決意を固めた。彼は黒基調の実戦的な装備に身を包み、単独で基地を抜け出す。前回の侵入経路はすでに警備側へ割れている可能性が高い。フェリックスは港から旧市街を抜け、病院の北西に位置する医療廃棄物処理用の搬入路へ回り込んだ。夜勤の職員が交替する僅かな隙を突き、彼は壁面の配管を伝って地下階へと下降していく。
警備システムの反応が前回とは異なる。フェリックスが地下三階の検体保管庫へ近づいた瞬間、壁面のセンサーが一定の間隔で青く点滅していることに気がついた。ゼロの警告が脳裏を過る。暗号パターンはすでに更新されていた。フェリックスは呼吸を浅くして物陰に身を潜め、センサーの周期を数えながら指で無言のリズムを刻む。十一秒、九秒、十一秒。その不規則な間隔に僅かな死角が生まれるのを待ち、彼は迷いなく通路を横切った。
サーバールームの電子錠は以前のままだった。フェリックスは静かに扉を開けて滑り込み、壁際の端末に端末を接続する。画面に流れ込むのは、暗号化された摘出予定表の残り三割。彼は復元プログラムを走らせ、欠損データの組み換えを開始した。冷えた空気の中で、機器の放つ微かな熱だけが頬に触れている。
やがて画面に、空白だった行へと繫がる隠し注記が浮かび上がった。フェリックスは目を凝らし、そこに記された文字列を追う。「アイスボックス搬入予定」——その注記は患者コードの空白に潜むように貼り付けられていた。美和子のものらしき識別番号は、患者として登録されているのではない。彼女は臓器摘出の対象というより、別の流れに組み込まれている。フェリックスの心臓が一度、強く脈打った。
その時、隣室から白衣の擦れる音が聞こえた。フェリックスは端末を伏せ、サーバーラックの影へ身を沈める。磨りガラスの向こうに若い病理技師らしき人影が現れ、検体記録の棚に手を伸ばしていた。男はフェリックスに背を向けたまま、震える声で独り言を零す。
「また増えてる……こんな深夜に、どうして摘出予定が急に……」
技師は記録の束を握り締め、何度も首を振った。彼の横顔には青白い疲労と、何かに怯え切った色が張り付いている。記録の矛盾に気づきながらも病院を辞められない理由が、彼の口から不意に漏れた。
「家族が……あの人の手の中にいる限り、誰にも言えない。見つかったら、それで終わりなんだ」
技師の声は掠れ、涙を含んだように震えていた。フェリックスは息を殺し、背後の暗がりに身を溶け込ませる。白衣の男はしばらくその場で記録を弄っていたが、やがて怯えた足音を残して隣室を去っていった。
静寂が戻り、フェリックスはゆっくりと端末を起こした。復元されたデータには、空白の行が「搬入予定」として港湾の第八埠頭へと繫がる経路が示されている。美和子の識別番号らしき数字は、摘出予定表に直接記録されていない。彼女は別の計画、アイスボックスに関わる何かに利用されている可能性が高い。フェリックスは端末を閉じ、暗闇の中で小さく息を吐いた。
彼が基地へ戻ったのは、夜明け前の静けさの中だった。自室の椅子に腰かけ、復元したデータを前にフェリックスはしばらく動かない。美和子が摘出対象でないことへの安堵が、けれど任務への冷静な判断を鈍らせてはいけないと、彼は自分に言い聞かせるように指先を組んだ。端末を閉じる直前、画面に残る「アイスボックス搬入予定」の文字が、琥珀の瞳に冷たく映り込んでいた。