フェリックスは端末の画面を閉じると、椅子の背に深く凭れかかった。琥珀の瞳が暗い天井の一点を捉えたまま動かない。窓の外では夜明け前の藍色がわずかに薄れはじめ、廃倉庫の鉄骨を白く浮かび上がらせていた。指先が無意識に机の縁をなぞる。美和子が摘出対象ではないという事実は確認できたが、それが彼女の安全を意味するわけではない。むしろ、アイスボックスに絡む「別の流れ」こそが、より精密に追わなければならない線だ。彼が小さく息を吐いた、ちょうどその時だった。
机の上の通信端末が、短く二度震えた。
フェリックスは即座に背筋を伸ばし、端末を手に取る。画面に浮かんだのはゼロからの緊急招集を示す暗号列だった。彼は端末を上着の内側に滑り込ませると、素早く立ち上がって部屋を出た。地下通路の冷たい空気が頬を撫でる。鋼鉄の扉をいくつか抜け、中枢指令室の重いドアを開けると、そこにはすでにゼロが立っていた。指揮官の黒い手袋を嵌めた指が、壁一面のモニターを操作している。端末の光が、その鋭利な横顔を照らしていた。
「来たか、フェリックス」
ゼロは振り返らないまま、低く抑えた声で言った。モニターにはフェリックスが復元した摘出予定表と、港湾地区の地図が並べて表示されている。ゼロの指先が第八埠頭の一点を指した。
「このデータの空白行、解析が終わった。今夜、第八埠頭でアイスボックスの搬入が行われる。時期を読むなら潮汐と警備の周期、それに聖マリア側の摘出スケジュールから逆算して正確に合う。お前が行け」
フェリックスはモニターに視線を走らせ、地図上の経路とタイムスタンプを頭の中で照合した。瞳の奥が急速に冷えていく。
「了解しました。記録を最優先に、接触は避けます」
「当然だろう。相手は感覚が鋭い連中だ。一瞬でも正体を悟られるな」
ゼロが初めて振り向いた。その細められた目には、指示というより警告に近い色が浮かんでいる。フェリックスは無言で頷き、指令室を出た。廊下を歩きながら、彼は頭の中で変装の工程を組み立てていく。今夜の埠頭は霧が出る。視界が悪ければ動きやすく、同時に相手の視界も読まれるため、迷彩に頼るより黒い装束で影に溶ける方が有効だ。白銀の髪を隠すフード、顔の輪郭を曖昧にする覆面、それから喉元には変装用声帯模倣デバイスを装着する。もし詰問されれば、埠頭の作業員の声を借りるだろう。
夜が完全に落ちた頃、フェリックスは人気のない搬入路を選んで埠頭の外周へ近づいていた。港湾独特の重油と潮の匂いが漂い、濃い霧が海面から流れ込んで街灯の光を乳白色に滲ませる。船の汽笛が遠くで一度鳴り、波止場のコンクリートに反響して消えた。フェリックスはコンテナターミナルの影に身を潜め、望遠レンズを構える。呼吸を浅く、一定に。心音が静かに鼓膜の近くで打つのを感じながら、彼はレンズ越しに闇船を見た。
船は静かに接岸していた。警告灯も点けず、舳先の標識灯だけが赤く霧を照らしている。クレーンの影から数人の男たちが現れ、慎重な手つきで保冷コンテナの扉を開いた。白い冷気が霧と混ざり、足元に低く流れる。担ぎ出されたのは、あの特殊な保冷機能を持つアタッシュケース、アイスハートだった。フェリックスの指先が、望遠レンズの焦点を静かに合わせる。
男たちは手早くケースを黒塗りの車両へ積み込み、同時に搬入リストを確認し始めた。霧に湿った声が断片的に聞こえる。フェリックスは望遠レンズ越しに、その口元の動きまで読み取っていた。
「聖マリアからの特別検体……間違えるなよ。識別番号が一つ違うだけで、今度は俺たちの臓器が抜かれる番だ」
別の男が低く笑い、リストを照明の下へ傾けた。その時、フェリックスの視界に検体番号が映る。彼の琥珀の瞳が、ほんの一瞬だけ細められた。それが美和子のカルテに付随する識別子と一致している。摘出リストには直接載っていない彼女の情報が、搬入物の中に使われている。血液か、組織か、あるいはもっと別の生体データか。どちらにせよ、美和子は臓器の摘出対象としてではなく、何らかの「素材」としてこの流れに組み込まれている。フェリックスは無機質な冷静さで、その事実を情報として刻み込んだ。
撮影の終盤、浜風の向きが変わった。霧が一瞬流れ、フェリックスの足元の影が街灯の輪郭からはみ出す。埠頭の端で見張りに立っていた男が、不審そうに顔を上げた。男は懐中電灯を霧へ向け、足早に近づいてくる。フェリックスは息を殺し、積み残しのコンテナの隙間へ身を滑り込ませた。鉄の冷たさが背中に伝わる。男の足音が濡れた地面を踏む音が、すぐ傍まで来ていた。
「……ネズミか」
男の呟きが、霧の中に落ちる。光の筋がコンテナの角を撫で、もう一歩、また一歩と近い。フェリックスは全く動かない。胸元では声帯模倣デバイスが、呼吸のたびに冷たく肌へ食い込む。彼の視界は暗がりの中で澄み切っていた。男がコンテナの並びを過ぎる瞬間、濡れた作業靴の音が耳の真横で軋む。だが、男は足を止めなかった。やがて「気のせいか」という声と共に、足音が元の持ち場へ戻っていく。
フェリックスは三十秒を数えてから、ゆっくりと影から滑り出た。証拠は十分に撮れた。彼は埠頭の外れへ回り、搬入路を避けて暗いフェンス沿いに離脱する。霧がさらに濃くなり、時折り白く揺れる街灯の下を抜けると、ようやく港区の舗装路へ出た。彼はフードを軽く直し、初めて口元の力を抜いた。薄く、冷たい微笑みが浮かぶ。ただ正確な事実として、美和子の識別番号は摘出リストに載っていない。それだけのことが、なぜか彼の背骨から静かに重みを取り去っていた。だが、それは感情ではない。単なる認識だ。彼女の安全という条件が、今夜のデータで少しだけ明確になったに過ぎない。フェリックスはそう自分に言い聞かせた。
基地へ戻る道すがら、街灯の光が尽き、闇だけが続く。フェリックスは歩きながら、ゼロへの報告内容を頭の中で整理していた。聖マリアからの特別検体、アイスハートの積載、搬入リストの検体番号、それと美和子の識別子との一致。伝えるべき優先順位を組み換え、余計な解釈を排し、証拠映像に語らせる。彼の瞳は夜の空気の中で、薄く光るように澄んでいた。
基地に着くと、フェリックスはまっすぐ自室へ戻った。端末を開き、撮影した映像を暗号化してゼロへ送信する。送信完了の表示を見て、彼はひとつ深く息を吐いた。画面の青白い光が、整った顔立ちに冷たく反射する。琥珀の瞳に映るのは、やはり港の地図と、聖マリア病院の摘出スケジュール、そしてアイスボックスの搬入経路を照合した新たな情報の網だ。フェリックスは端末を伏せ、静かに目を閉じた。次の手を、組み立てはじめている。