自室を出たフェリックスが装備庫の重い鋼鉄扉に手をかざすと、低い駆動音を立てて左右に開いた。庫内は常時、外気より数度低く保たれていて、鼻の奥を刺すような金属と潤滑油の匂いが漂っている。壁面を埋め尽くす黒いラックには、任務ごとに分類された装備品が整然と並び、薄暗い照明を受けて鈍く光っていた。フェリックスは迷いのない足取りで医療関連任務用の区画へ歩を進め、暗視ゴーグルの収められたケースと、医療記録の転送に使う耐衝撃仕様の小型端末を手に取る。彼が端末の起動確認をしていると、背後の入口付近でかすかな気配が動いた。
「ずいぶんと手際がいいな、フェリックス」
その声に、フェリックスは端末から顔を上げた。ゼロが腕を組んで壁に背を預け、わずかに首を傾げて彼を見つめている。大ぶりな瞳は薄暗い装備庫の中でも異様なほど澄んでいて、親しげな温度の奥に、値踏みするような鋭さを湛えていた。フェリックスは目を逸らさず、軽く会釈を返してから暗視ゴーグルを腰のポーチに収めた。
「必要な物は揃いました。今夜から予定通り潜入します」
「三晩という制限は、単なる推奨じゃない。病院の警備システムは三日周期で侵入ルートの暗号パターンを刷新する。通信が途絶したら、それは死を意味すると思え」
ゼロは壁から背を離すと、ゆっくりとフェリックスの正面まで歩み寄った。二人の距離が腕一本分ほどに縮まり、ゼロの端正な顔が装備庫の冷たい光に浮かび上がる。彼はフェリックスの胸元に手を伸ばし、襟の留め具を軽く指先でなぞった。
「お前は優秀だ。だが、あの病院はこれまで何人ものエージェントを呑み込んできた場所でもある。俺が回収に行くような真似はさせてくれるなよ」
「心得ています」
フェリックスが短く答えると、ゼロは満足げに唇を吊り上げ、一歩後退して棚の縁に腰をかけた。彼は肩をすくめるようにして続ける。
「それと、記録の在り処だが、病院地下三階の検体保管庫だ。脳死判定の捏造記録の原本は、あの区画の最奥に置かれている。警備員の巡回ルートは取得済みの見取り図に書き込んである。ただし、あれは一週間前の情報だから、多少のズレは想定しておけ」
「地下三階の検体保管庫ですね。ずれがあっても対処します」
「お前のそういう迷いのない返事は、聞いていて気持ちがいいな」
ゼロの声は柔らかくなでるように響いたが、その瞳の奥だけは笑っていなかった。フェリックスはそれ以上何も言わず、端末の電源を落として胸の内側ポケットに滑り込ませる。装備庫の空気は冷え冷えとしていて、彼の指先はすでに任務前の静かな興奮でわずかに感度を増していた。
翌夜、聖マリア記念総合病院は帝都の西端にそびえる巨大な病棟の窓に、いくつもの青白い照明を灯していた。敷地外周の植え込みには雨を含んだ夜風が渡り、湿った土と消毒液の混じった、この場所特有の匂いを運んでくる。フェリックスは黒を基調とした実戦用の軽装に身を包み、職員通用口近くの死角に身を潜めていた。警備員が正面玄関から従業員駐車場の方へ遠ざかるのを確認すると、彼は低い姿勢のまま通用口のカードリーダーへ近づき、袖口に仕込んだ偽装パスをかざす。小さな電子音のあと、錠の外れる音が夜気に吸い込まれ、フェリックスは滑り込むように病院内へ入った。
館内は消灯後の病院特有の静けさに満ちていた。長い廊下には床面の誘導灯だけが青白く光り、壁際の配管から時折かすかな振動音が伝わってくる。フェリックスは暗視ゴーグルを装着し、自分の靴音を殺しながら西側の非常階段へ向かった。彼の頭の中には、見取り図に刻み込んだ地下三階への最短ルートが正確に展開されている。二人組の警備員が巡回カートで一階ロビーを横切る間、フェリックスは壁の凹みに身体を密着させ、息を詰めてやり過ごした。心臓はゆっくりと、しかし力強く鼓動を打ち、視界の端で暗視ゴーグルの緑色の輪郭がわずかに揺れる。
地下へ続く階段は、さらに空気が冷たく、壁の塗装が白々と浮かび上がって見えた。病院のかすかな生活音はここまで届かず、彼の呼吸音だけが耳の奥で反響する。地下三階へ降り立ったフェリックスは、廊下の突き当たりに設けられた検体保管庫の重い扉を見据えた。警備システムの制御盤は壁面に埋め込まれ、小さな赤いランプが規則的に点滅している。彼は端末を取り出し、制御盤のカバーを静かに外すと、裏面の配線にコネクタを差し込んだ。端末の画面に無数の数字が流れ、数秒ののち、電子ロックが短い音を立てて解除される。フェリックスは息を整え、扉を必要最小限だけ開けて内部へ身を滑り込ませた。
保管庫の中は、想像していたよりもずっと無機質で、広く、清潔だった。天井近くまで届く銀色の棚には、検体の保管容器がずらりと並んでいる。空調の低い唸りが空間全体を支配し、わずかに薬品の匂いがした。フェリックスは最奥の作業台に近づき、壁際の端末ポートへ小型端末を物理接続する。画面に院内システムのメニューが現れ、彼は指先で素早く階層をたどり、脳死判定記録と摘出スケジュールのデータ領域を呼び出した。転送開始の表示が点灯し、データが流れ始める。残り時間を示す数字がゆっくりと減っていくのを、フェリックスは呼吸も浅く見守った。
しかし、転送が七割を超えたあたりで、保管庫の入口側にある警報ランプが突如として赤く明滅した。続いて、遠くからかすかな警報音が響き始める。フェリックスは舌打ちを押し殺し、端末の表示を一瞥した。あと少しで完了するが、警備員がここへ到達するまでの猶予はない。彼は迷いを断ち切るように端末を掴み、接続を強制解除すると、転送済みのデータを暗号化して保存した。腰のポーチから小型の冷却スプレーを取り出し、操作痕を拭き消してから、扉へ向かって走り出す。廊下の向こうから重い靴音が近づいてくるのがわかり、フェリックスは逆方向の配管室へ身を滑り込ませた。
追跡は執拗だった。警備員の無線が短く交錯し、時折ライトの光が壁を走る。フェリックスは何度か行く手を阻まれながらも、事前に組み立てておいた退避経路を冷静になぞり、地下から二階の資材搬入口を経て、夜陰の敷地外へ抜け出した。雨が再び降り出していて、冷たい滴が彼の白銀の髪を濡らし、頬を伝う。彼は後方に人の気配がないことを確かめると、暗視ゴーグルを外して路地の影へ入り、呼吸を整えた。胸の内側では、転送に成功したデータの重みが冷たく脈打っている。
地下要塞に帰還したフェリックスは、装備を返却する間もなく自室で端末を開いた。転送されたデータは断片ではあったが、十分に意味を読み取れる形で残っていた。彼は目を走らせ、次々と浮かび上がる数字と日付の列を追う。そして、ある予定表の一覧に視線が止まった瞬間、フェリックスの指先がぴたりと動かなくなった。そこには、次の摘出予定として、美和子の誕生日と一致する日付が、患者コードも名目もなく記されていた。しかも摘出対象欄には、彼女の個人識別番号らしき数字が薄く付されているように見える。フェリックスは眉をひそめ、その数字を何度も読み返す。宗一郎が娘を臓器取引の対象にするとは考えられない。だがあの男は、美和子を心から愛しながら、彼女の存在を何かの計画に利用しているのかもしれない。フェリックスはしばらく呼吸を忘れたように画面を見つめ、それからゆっくりと端末をテーブルに置いた。美和子個人への関心は、まだ何もない。ただ、任務の対象に無関係な名前が混じっていることへの違和感だけが、頭の隅で引っかかっていた。自分の顔から血の気が引いていくのが分かる。頭の芯が冷え、指先の感覚だけが妙に鋭くなっていた。
翌日、フェリックスが基地の東棟にある小さなラウンジへ足を踏み入れると、窓辺の椅子に腰かけていた市川が静かに顔を上げた。市川は「暁」の中核メンバーの一人で、太く凛とした眉の下で左右異なる表情を見せる神秘的な双眸をフェリックスに向ける。長い睫毛の影が落ちる切れ長の瞳、完璧な鼻梁、クーピッドアローを描く唇——その冷艶な容貌がかえって彼の優しさを際立たせていた。
「無理をしていないか」
市川の声は低く、しかし驚くほど柔らかくラウンジの空気に溶けた。彼は三回の連続任務で疲弊したフェリックスの精神状態を誰よりも案じており、その双眸には懸念の色が滲んでいる。
「自分は大丈夫だ」
フェリックスは感情のない声で答えたが、市川は彼の言葉を信じず、ただ深い眼差しで見つめ返すのみだった。
一方、聖セシリア女学院の校長室では、酒井夏子が美和子と向き合っていた。夏子は宗一郎の命で美和子を監視する立場にありながら、本質的な善良さゆえにその矛盾に苦しみ、塞ぎ込む美和子に「何かあればいつでも話してほしい」と優しく声をかける。しかし美和子は父への恐怖から心を開けず、表面的な感謝の言葉だけを返し、その瞳には深い諦めが漂っていた。