堺邸の重い門をくぐり抜けたフェリックスは、夕闇が迫る街路を一定の歩調で進みながら、すでに意識を次の段階へと切り替えていた。変装用の声帯模倣デバイスが喉に与える微かな違和感を無視し、彼は二度角を曲がり、人通りの少ない路地へ入る。そのまま十分ほど歩き、あらかじめ決めてあった監視の死角——古い書店の裏手にある廃れたバス停の待合所——で足を止めた。フェリックスは周囲に人の気配がないことを確認してから、耳の裏に貼り付けた超小型通信機を指先で軽く叩き、暗号化回線を開く。
「こちらフェリックス。堺邸の個人指導、初回を終了した。美和子の状態に変化あり。詳細は帰還後に報告する」
通信機からは短い受信確認音が一つだけ返り、それきり沈黙した。ゼロからの応答はない。フェリックスはそれを異常とは捉えなかった。ゼロは必要なときにだけ声を出す男であり、その沈黙こそが「了解した。戻れ」という指示であることを、彼は長年の経験で知っていた。フェリックスは通信を切り、待合所を離れて再び街路へ出る。彼の足はすでに、一般人が決して辿り着けない地下要塞「暁」の隠し入口へと向かっていた。
地下要塞へ続く隠し通路は、港湾地区に放棄された古い倉庫の地下に設けられている。フェリックスは倉庫の重い鉄扉を開け、黴と潮の混じった匂いが漂う暗がりの中を迷いなく進み、壁面に埋め込まれた生体認証パネルに掌を押し当てた。パネルが青く光り、壁の一部が音もなく横に開く。その先に広がるのは、「暁」の本部——無機質な照明が照らす長い廊下と、空調の低い唸りが絶えず響く地下空間だ。フェリックスは廊下を進みながら、変装を解除するための準備室へと入った。
準備室の鏡の前に立ったフェリックスは、まず眼鏡を外し、次に「コンノ」の顔を作り上げていた特殊な皮膜マスクを慎重に剥がしていく。マスクの下から現れたのは、透き通るような白銀の髪と、琥珀色の大きな瞳だった。彼は手指で髪を数回梳き、本来の流れを取り戻す。マスクを長時間装着していた肌はわずかに赤みを帯びていたが、それも彼の端正な顔立ちの前では、むしろ生々しい美しさを添えるだけだった。高い頬骨から引き締まった顎のラインへと滑らかに繋がる横顔が鏡に映り、ふっくらとした唇のクーピッドアローがくっきりと影を落としている。フェリックスは黒基調の「暁」の制服に着替え、襟元を整えると、自分の指先がまだわずかに冷えていることに気づいた。彼はそれを確認しただけで、特に何の感情も結びつけずに、準備室を後にした。
中枢指令室の重い扉が開くと、そこにはゼロが一人で戻ってきて待っていた。広い室内の中央に置かれた長方形の作戦テーブルの端に腰を下ろし、片手で端末を操作しながら、もう一方の手でコーヒーカップを持ち上げている。ゼロはフェリックスが入室するよりも先に、視線だけを上げて彼を捕えた。その大きく美しいアーモンド型の瞳は、一瞬だけ親しみやすく温かな光を帯びたかと思うと、すぐに鋭くミステリアスな眼光へと表情を変える。ゼロはゆっくりとカップを置き、背もたれに身を預けてフェリックスを見つめた。
「報告を聞こうか、フェリックス」
その声は静かで、しかし底に冷たい愉悦が潜んでいる。ゼロはフェリックスをからかうときと同じ口調で、しかし今は任務に関する情報を純粋に求めていた。フェリックスは作戦テーブルの反対側に立ち、堺邸での美和子の過呼吸発作、彼女が父に体調を知られることを極度に恐れている様子、そして書斎らしき区画の位置と監視記録集約の推定について、簡潔に報告した。ゼロはそれを最後まで黙って聞き、フェリックスが話し終えると、ふっくらとした唇の端をわずかに上げて笑みの形を作った。
「上出来だ。たった二度の接触で、あの籠の鳥の弱点と、宗一郎の監視記録の在り処まで絞り込んだ。さすがは俺のフェリックスだな」
ゼロは立ち上がり、テーブルをゆっくりと回り込んでフェリックスの側へ歩み寄る。彼の逆三角形の体躯が、無機質な照明の下で引き締まった彫刻のような筋肉の輪郭を制服越しに浮かび上がらせていた。ゼロはフェリックスのすぐ傍まで来ると、そこから先には踏み込まず、わずかに首を傾げて彼の琥珀の瞳を覗き込む。
「次の任務だ。聖マリア記念総合病院——宗一郎が裏で牛耳っている臓器の屠殺場だ。あそこに潜入し、脳死判定の捏造記録と、摘出スケジュールの原本を奪取しろ。期間は三晩。それ以上はリスクが高すぎる」
フェリックスは短く「了解」と答えた。ゼロはその返事に満足したように、ふっと表情を和らげ、華やかな笑顔を一瞬だけ見せる。その笑みは、彼のシャープな顔立ちを一気に柔らかく崩すが、同時にその瞳の奥には、フェリックスへの深い執着がちらりと覗いていた。ゼロはそれ以上は何も言わず、作戦データの入った端末をフェリックスに手渡し、ひらりと手を振って指令室を出て行った。
フェリックスは一人になると、端末を確認してから指令室を後にし、地下要塞内の居住区画へと足を向けた。廊下の空調の唸りが、彼の足音を飲み込んでいく。彼は自室の前で立ち止まり、認証を済ませて扉を開けた。室内は必要最小限の家具だけが置かれた簡素な空間だが、フェリックスにとっては唯一、仮面をすべて外せる場所だった。
彼は制服を脱ぎ、浴室へ入った。温水が白銀の髪を濡らし、透き通るような肌の上を伝い落ちていく。湯気の中で、フェリックスは両手を壁について、しばらくじっと水流に身を任せていた。水滴が高い頬骨を滑り、ふっくらとした唇の稜線をなぞり、引き締まった顎の先から滴り落ちる。彼の肉体は、誰もが羨む美しい逆三角形の体躯をしており、広く美しい肩幅から伸びやかな首元へと続くラインが、湯気の中で彫刻のように浮かび上がっていた。彼は目を閉じ、右手の指先がすでに冷たさを失っていることを、水流の温かさの中でようやく自覚した。
浴室を出たフェリックスは、薄暗い寝室へと入り、タオルで髪を軽く拭いながらベッドの端に腰を下ろした。白銀の髪はまだ湿り気を帯びて、琥珀の瞳の周りに柔らかく張り付いている。彼はタオルを傍らに置き、深く息を吐いた。任務の緊張が、ようやく筋肉から解けていくのを感じる。しかし、それと同時に、長い潜入任務の間に抑え込んでいたもう一つの欲求が、静かに彼の内側で頭をもたげ始めていた。
フェリックスはベッドに身を横たえ、天井を見上げた。この部屋には誰もいない。観察者も、監視カメラも、ゼロの視線も、すべて遮断された完全な私的空間だった。彼の右手が、ゆっくりと自分の腹部の上を滑り、引き締まった筋肉の起伏を指先で確かめるように下りていく。指腹が臍の窪みをなぞり、さらに下へ、下腹部の薄い産毛の生え際をかすめて進む。フェリックスは目を閉じ、自分自身の身体の感覚だけに意識を集中させた。彼の指は、長い潜入任務で蓄積された性的な緊張を解きほぐすように、自分の中心へと伸びていく。すでに熱を帯びて兆し始めたそこに指先が触れると、フェリックスは小さく息を呑み、一瞬だけ手を止めた。彼は自分の反応を冷静に観察しながら、ゆっくりと指を巻きつけ、根元から先端へ向かって、皮を押し上げるように扱き始める。その動きは急くことなく、自分の肉体の敏感な部位を知り尽くした者だけができる、正確で無駄のないリズムを刻んでいた。先端から滲み出た透明な液が指の動きを滑らかにし、湿った音が静かな寝室に微かに響き始める。
薄闇の中で、フェリックスの端正な横顔がわずかに仰け反る。ふっくらとした唇から、息とも吐息ともつかない小さな呼気が漏れ、それが次第に抑えきれない吐息へと変わっていく。白銀の髪が枕の上で乱れ、閉じた瞼の裏で琥珀の瞳が動く。彼の指先は自分の反応を正確に読み取りながら、強さと速度を少しずつ変えていった。親指が敏感な先端の縁を円を描くように擦り、残りの指は充血して硬く膨らんだ幹をしっかりと握り込んで、上下に扱く速度を徐々に上げていく。全身の筋肉が緩やかに波打ち、広い肩幅がかすかに震え、胸郭が深い呼吸に合わせて大きく上下する。彼の腰が無意識に浮き始め、自らの手の動きに合わせて小さく揺れていた。彼は誰も思い浮かべなかった。美和子の顔も、ゼロの顔も、過去の誰の記憶も、この行為の中には入り込ませなかった。これは純粋に、彼自身の身体の管理と解放であり、任務を続けるための必要な手入れだった。
やがてフェリックスの呼吸が深く乱れ始め、引き締まった腹筋が規則的に収縮を始める。彼の指の動きが一気に速まり、濡れた音が連続して寝室の静寂を破る。白い喉が露わになり、クーピッドアローの際立つ唇が半開きになって、抑えきれない低い呻きが漏れた。彼は自分の声を噛み殺そうとしたが、迫り上がる快感の波がそれを許さない。琥珀の瞳が閉じた瞼の裏で激しく動き、白銀の睫毛が震える。彼の指はもうほとんど無意識の動きで、硬く張り詰めた自身を追い立てるように扱き続けた。そして、腹筋が一際強く収縮した瞬間、フェリックスは背を弓なりに反らせ、長い肢体を硬直させた。先端から熱い白濁が幾筋も迸り、彼の引き締まった腹部と指を濡らしていく。フェリックスは声にならない吐息を何度も繰り返しながら、その解放の波が全身を駆け抜けるのに身を委ねた。脈打つ余韻が収まるまで、彼の指はゆっくりと、最後の一滴まで絞り出すように優しく扱き続けていた。フェリックスはしばらくそのまま目を閉じて横たわり、自分の呼吸が整うのを待った。胸の上に置かれた彼の右手の指先は、もう冷たくはなかった。
フェリックスはゆっくりと上体を起こし、湿ったタオルで指を拭いながら、端末に表示された聖マリア病院の見取り図にちらりと目をやった。明日の夜から、三晩。彼の頭の中では、すでに潜入経路と、脳死判定データへのアクセス手順が組み立てられ始めている。彼はタオルを脇に置き、ベッドから立ち上がると、新しい制服を手に取った。白銀の髪が乾いて元の流れを取り戻し、琥珀の瞳には再び冷徹な計算の光が宿っている。フェリックスは襟元を整えながら、浴室の鏡に映る自分の顔を一瞥した。そこにあったのは、もはや「コンノ」でも、つい先ほど欲望を解き放った一人の男でもなく、「暁」のエージェント、フェリックスそのものの顔だった。
彼は自室の扉を開け、聖マリア病院の闇へと向かうための準備を始めた。廊下の空調の唸りが、再び彼の足音を受け止め、地下要塞の無機質な静寂の中へと溶かしていく。