音楽室の重い扉を閉めたフェリックスは、誰もいない廊下を校門へ向かって歩き出した。彼の足音だけが、石造りの壁に反響して規則正しく響いている。聖セシリア女学院の廊下はどこも磨き上げられていて、夕暮れ前の陽が高い窓から差し込むと、廊下全体が淡い琥珀色に染まった。フェリックスはその光を横目で眺めながら、先ほどのレッスンで美和子が見せたわずかな表情の変化を頭の中で整理していた。警戒を解いてはいないが、彼女は何かを探っている。そして、探るという行為そのものが、彼女の孤独と父親への恐れを物語っている。
校門の手前まで来ると、酒井夏子がすでに待っていた。彼女は両手を揃えて前に置き、背筋を伸ばしたまま立ち尽くしていて、その薄い唇には常に貼り付けたような微笑みが浮かんでいる。フェリックスが近づくと、彼女は一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「コンノ先生、本日もご指導ありがとうございました。今日はよく晴れましたね、お帰りの道も心地よいでしょう」
夏子はそう言ってから、穏やかな雑談を挟み込むように続けた。
「実は、次回のレッスンから、学院ではなく堺邸での個人指導に切り替えさせていただきたく存じます」
「そういえば、先生は普段どうやってお過ごしですか。お稽古の合間は」
フェリックスはそれに対して、驚きもせず、ただ静かに瞬きを一つしただけだった。彼の胸の内では、むしろ渡りに船だという冷徹な計算がすでに走っている。堺邸内部の構造を直接確認できる機会は限られている。学院での接触だけでは得られない情報が、屋敷の中にはある。宗一郎の書斎の位置、警備の配置、使用人の動線、そして何より、美和子が日常的に置かれている環境を自分の目で確かめられる。彼は講師らしい穏やかな表情で「承知しました」とだけ答え、理由を尋ねるような真似はしなかった。夏子はまた雑談を交えながら、少しだけ言いづらそうに本題へと話題を移した。
「堺宗一郎様が、美和子さんの外出をなるべく控えさせたいとのご意向でして。お嬢様の健康面を考慮されてのことです。屋敷の一室をレッスン用に整えてお待ちしておりますので、どうぞご足労いただければと」
フェリックスは小さく頷き、それから「かしこまりました」ともう一度答えた。夏子は安堵したように微笑を深くし、再び頭を下げてから校舎の方へと戻っていった。彼はその背中を一瞥もせず、校門を抜けて外へ出る。堺邸内部への潜入という次の一手が、こうも滑らかに与えられたことに対して、彼の胸の内には任務が順調に進んでいるという冷めた満足感だけがあった。だが、それと同時に、美和子という少女がますます父親の手で囲い込まれていることに対する、誰に対するともつかない違和感が、彼の意識の隅にごく薄く張り付いていた。
翌週の午後、フェリックスは再び堺邸の門をくぐった。前回の外周調査で確認した通り、門から玄関までのアプローチには複数の監視カメラが設置されていて、庭師の動きもただの庭仕事ではないことを彼はすでに把握している。玄関に出迎えたのは、前回も姿を見せた年配の執事だった。執事はフェリックスの顔を確認すると、恭しく頭を下げて彼を応接室へと案内する。応接室の重厚なドアが開かれると、そこには堺宗一郎が待っていた。
宗一郎は深い臙脂色のソファにゆったりと腰掛けていて、手にはブランデーの入ったグラスを持っている。その姿は一目で人の心を掴む強烈なカリスマ性を放っていた。黒髪は後ろへ隙なく撫でつけられ、白いこめかみに一筋も乱れがなく、銀縁の眼鏡の奥では切れ長の鋭い双眸が静かに光っている。その瞳は相手の心臓の奥まで射抜くような圧力を持ち、見つめられただけで息を止めてしまいそうになるほどだった。鼻梁は高くまっすぐに通り、薄い唇は笑みの形を作っていながら、どこか刃物のように冷たい。顎の輪郭は鋭く引き締まり、深く刻まれた法令線が年齢以上の凄みを顔全体に与えている。背は高く、肩幅も広く、スーツの上からでも鍛え上げられた肉体の厚みがはっきりと分かった。彼がそこに座っているだけで、応接室の空気は重く張り詰め、窓から差す午後の光さえも彼の存在に吸い込まれていくようだった。彼はフェリックスが部屋に入ると、ゆっくりと立ち上がり、口元だけを笑ませて右手を差し出した。
「これはこれは、コンノ先生。娘がいつもお世話になっております」
その声はよく通る低い声で、響きに含まれる揺るぎない自信と支配的な存在感が、表面だけの愛想の良さの下から滲み出ていた。フェリックスはその手を握り返しながら、相手の目をまっすぐに見る。宗一郎の瞳は笑ってはいなかった。彼はフェリックスの顔や服装を値踏みするように一瞥し、それからわざとらしく心配そうな表情を浮かべた。
「美和子は昔から体が弱くてね。学院まで通わせるのも心配でならない。できれば、こうして屋敷の中で静かに過ごさせてやりたいと思っているんですよ。先生にもご不便をおかけしますが、どうかご理解いただければ」
フェリックスは「もちろんです」と短く答え、それ以上は何も言わなかった。宗一郎の言葉には、娘を案じる父親という仮面の裏に、自分の管理下から美和子を一歩も出したくないという所有欲が透けて見えていた。彼はフェリックスを安全な相手かどうか値踏みしながら、万が一にも美和子を外部に繋ぐ存在になるならば、すぐにでも排除できるように監視を強めている。そのことを、フェリックスは十分に理解していた。宗一郎はもう一度だけ口元を緩め、執事に「レッスン室へ案内しろ」と短く命じてから、再びソファに腰を下ろした。
レッスン室は、屋敷の奥まった二階の一室だった。廊下の突き当たりにあるその部屋は、思ったよりも明るく、窓からは中庭に面した緑が見渡せる。部屋の中央にはすでに譜面台と椅子が二脚用意されていて、壁際には小さなサイドボードの上に花瓶が一つ、控えめに置かれている。そして、窓辺に立っていた美和子は、フェリックスが入室すると同時に振り返った。
彼女の顔色は前回よりも明らかに悪く、目の下にはうっすらと青い隈が浮かんでいた。けれども、彼女の瞳は学院で見せていた硬い警戒とは少し違う光を宿していて、それが屋敷という閉じた空間の中でわずかに緩んだ安堵の表れであることをフェリックスは見逃さなかった。美和子は小さく会釈をし、すぐに譜面台の前に立った。彼女が手にしたバイオリンを構える指先には、かすかな震えがまだ残っている。
「今日は、ここでお願いします」
美和子はそう言って、目だけをわずかに上げてフェリックスを見つめた。部屋の中にいるのは二人きりではない。扉の外には使用人が立ち、廊下の向こうからは時折、誰かの足音が近づいては離れていく。それでも、学院の音楽室では必ず同席していた夏子の姿がないだけ、この空間にはほんの少しだけ息苦しさが薄れていた。フェリックスは譜面台に楽譜を広げながら、「では、前回の続きから」と穏やかに声をかける。美和子はこくりと頷き、肩の力を抜こうとするように一度だけ深呼吸をした。
レッスンが始まってしばらくは、彼女の演奏は機械的だった。指は正確に弦を押さえているが、音に感情が乗っていない。フェリックスはそれを指摘せず、ただ彼女の弓の動きと呼吸のリズムを観察し続けた。やがて、彼女が一つのフレーズを繰り返し練習しているうちに、不意にその指先が大きく震え、弓が弦の上で滑るようにずれた。美和子の呼吸が急に浅くなる。彼女の胸が不規則に上下し始め、両手が楽器を握ったまま小刻みに震え出す。フェリックスは即座に演奏を止めるように手を上げた。
「美和子さん、一度楽器を置いて」
彼の声は、講師としての落ち着きを保ったままだったが、その奥には命令ではない、静かな誘導があった。美和子は言われた通りに楽器を下ろしたが、彼女の肩は大きく上下し、唇は青ざめている。過呼吸の前兆だった。彼女は自分の腕を抱くようにして俯き、何かに耐えるように歯を食いしばっている。フェリックスは椅子から腰を浮かせ、彼女の正面にしゃがみ込んだ。距離を詰めすぎず、けれども逃げ場を塞がない位置で、彼は低く落ち着いた声をかける。
「息を吐く方から、ゆっくりでいい。吸うのはその後だ」
彼の声には、これまで任務の中で何人もの対象者を落ち着かせてきたプロフェッショナルとしての技術が滲んでいた。だが、それだけではなかった。自分の声が彼女の震えを少しでも和らげることを願うような、計算を超えた何かがほんの一瞬、フェリックス自身の胸の内に小さな波紋を広げる。彼はそれに気づきながらも、すぐに思考の隅へと追いやった。美和子は彼の声に従って細く息を吐き、何度かそれを繰り返すうちに、肩の震えが徐々に収まっていく。
「……ありがとう、ございます」
美和子はまだ顔を上げられずに、消え入りそうな声でそう呟いた。それから、彼女はおそるおそる顔を上げ、潤んだ瞳でフェリックスを見つめる。その視線には、恥じらいと、そして切実な懇願が混ざっていた。
「父には、言わないでください。お願いです」
フェリックスは静かに頷いた。彼はこの言葉の裏に、父親の怒りや失望ではなく、もっと深い恐怖が潜んでいることを感じ取っていた。それは、体調を心配されることへの恐れではない。管理されること、支配されることへの根源的な怯えだ。フェリックスは「大丈夫です。誰にも話しません」と短く答え、再び椅子に座り直した。美和子はそれに小さく頭を下げ、震える指でもう一度だけバイオリンを構え直す。その横顔には、まだ完全には消えていない恐怖の色が薄く張り付いていたが、それでも彼女は弓を弦に当て、もう一度だけ最初の音を鳴らした。
一時間ほどのレッスンを終えて部屋を出たフェリックスは、屋敷の廊下を玄関へ向かって歩きながら、頭の中で屋敷内の見取り図を更新していた。レッスン室から玄関までの廊下は直線ではなく、途中で二度折れ曲がる。その二度目の角を曲がったところで、一人の使用人が別の廊下から静かに現れ、フェリックスの前を横切って足早に歩き去っていく。彼はその使用人が背を向けて進む方角をさりげなく視線で追い、その先に重厚な木製の扉があるのを確認した。あの扉の向こうは、執事が先ほど「お入りになる必要のない区画」としてさらりと説明した場所だった。使用人はその扉の前で立ち止まり、軽くノックをしてから中へ消える。フェリックスは歩調を緩めずにそのまま玄関へ出た。彼の頭の中では、あの扉の先に宗一郎の書斎があり、屋敷内の監視記録が集約されている可能性が高いという推測が、すでに確信に近いものとして形を成していた。
玄関の外に出ると、午後の陽はすでに傾きかけて、庭の木々が長い影を地面に落としている。フェリックスは門へ向かう砂利道を一定の歩調で歩きながら、一度も振り返らなかった。彼の胸の内には、美和子の震える指先と、あの懇願する声がまだ残っている。彼はそれを任務に有益な情報として処理しようと努めながら、自分の右手の指先がわずかに冷えていることに気づいていた。それは午後の風のせいだけではなかった。彼はその温度をはっきりと言葉にしないまま、ポケットの中でそっと指を握りしめ、堺邸の重い門を静かにくぐり抜けた。