数日ぶりに訪れた音楽室は、前回と同じはずなのに空気の重さが違っていた。フェリックスは扉を開ける前に、廊下の窓から差し込む午後の光が床の木目を鈍く浮かび上がらせているのを横目で確認し、それから静かにノックをした。中から短い返事が聞こえ、彼はゆっくりと扉を押し開く。部屋の隅には酒井夏子が直立し、両手を腹の前で組んでこちらを見ていた。彼女の視線は穏やかでありながら、監視者としての役割を隠そうともしていなかった。
美和子は前回と同じ椅子に座っていたが、その背筋はわずかに硬く、膝の上に置いた指先が白くなるほど組まれている。フェリックスが一歩足を踏み入れると、彼女は顔を上げて小さく会釈した。その唇は「こんにちは」の形を作ったが、声はほとんど空気を震わせるだけだった。彼は講師らしい柔らかな笑みを返しながら、彼女の瞳の奥にある前回より強い警戒を読み取っていた。初対面のときは縋るような色が混じっていたが、今日はそれが薄れ、代わりに値踏みするような視線が彼の全身をゆっくりと撫でていく。
「今日もよろしくお願いします、三輪子さん」
フェリックスはケースを譜面台の横に置き、わざと彼女から二歩分の距離を保ったまま会釈した。その距離が彼女の防御を刺激しないためのものだと理解させるかのように、彼はすぐにバイオリンを取り出し、弓の毛替えを確認する仕草を見せた。美和子は一瞬だけ夏子の方を窺い、それからもう一度フェリックスを見た。彼女の指先がスカートの裾を握る。それは前回も見た癖だったが、今日は握る力が強く、指の関節が浮き上がっている。フェリックスはそれを視界の端に収めながら、何も指摘せずに穏やかな声で言った。
「まずは、前回お話しした曲のことをもう少し聞かせてください。お母様が弾いていらした曲は、どんな曲でしたか」
その問いかけに、美和子の肩がわずかに揺れた。彼女は答えを探すように視線を床へ落とし、しばらくしてから「ゆっくりした曲です」とだけ答えた。彼女の声は前回より低く、語尾が消えかけている。フェリックスは「そうですか、では今日はゆっくりした弓の動きから始めましょう」と頷き、楽器を構えた。彼は彼女に無理に話させることはせず、基礎的な運弓練習へと自然に流れを作る。夏子は相変わらず隅で動かず、その存在は空気に張り付いた膜のように部屋を覆っていた。
美和子が弓を弦に乗せた瞬間、その右手は明らかに震えていた。フェリックスは隣に立ち、彼女の肘の高さを指先でそっと示すだけで、決して手を触れなかった。彼女が音を外すたびに、彼女は「すみません」と小さく謝り、そのたびに弓を止めてスカートの裾を握り直す。フェリックスはその動作を一つ一つ観察していたが、表情には出さず、ただ「大丈夫ですよ、もう一度ゆっくり」と穏やかに返した。彼の声が低く安定していることが、かえって彼女の混乱を静かに包み込むようだった。
「弓を持つ手の力が少し強いですね。手首を柔らかく使ってみてください。音は、指先で押さえつけるものではなく、弓の重さに任せて生まれます」
フェリックスは自分の弓をゆっくりと動かし、手本となる一本の長い音を鳴らした。音は低く、空気を震わせて部屋の隅まで届く。美和子はその音を聞きながら、しばらく自分の弓を見つめていたが、やがて恐る恐る弦に弓を戻した。今度の音はわずかにまっすぐで、彼女の呼吸に合わせてかすかに揺れていた。フェリックスは「その調子です」と短く言い、彼女の手元から一歩離れた。彼が距離を取ったことで、美和子の肩がほんの少しだけ下がるのを、彼は見逃さなかった。
レッスンの中盤、彼女は何度か音を外し、そのたびに消え入りそうな声で謝った。フェリックスは「謝らなくていいですよ」と繰り返したが、彼女は首を振るように俯き、またスカートを握った。その仕草が単なる癖ではなく、何かの前兆のように見えることを彼は冷静に記録していた。彼女の呼吸は時折浅くなり、唇が乾いている。フェリックスは過度に観察していると思われないよう、時々窓の外へ視線を移しながら、彼女の指先の震え方を記憶に刻んでいった。
終盤に差し掛かり、美和子はようやく一曲を通して弾き終えた。音はまだ荒く、ところどころ音程が曖昧だったが、最後の一音だけは驚くほど澄んでいた。彼女は弓を下ろし、小さく息を吐いた。フェリックスが「最後の音、とてもきれいでした」と言うと、彼女は一瞬だけ顔を上げて、すぐにまた伏せた。その頬にわずかに血が上っているのが見えた。彼は内心で、警戒心がわずかに緩んだことを確認したが、表情は講師としての微笑みを保ったままだった。
「先生は、どうしてこの学校に?」
美和子はふと顔を上げ、まず夏子の方を一瞬だけ窺ってから、そう問いかけた。その声には明らかな探りが混ざっていて、彼女の瞳はまっすぐにフェリックスを見つめている。彼は一瞬の間も置かず、用意された経歴を滑らかに口にした。地方の音楽大学を出て、いくつかの家庭で教えた経験があり、現在は都内で複数の学校から外部指導員として声がかかっている、という内容だった。美和子は「そうなんですね」と小さく相槌を打ったが、その瞳の奥の疑念は消えていなかった。彼女は納得したふりをしながらも、何かを測るように彼の指先や楽器の扱いを見ていた。
「ありがとうございました、コンノ先生」
美和子は立ち上がり、楽器をケースにしまいながら形式的に頭を下げた。それから数歩、扉の方へ歩きかけて、彼女は立ち止まった。肩越しに振り返り、口元だけを動かして「また来てくださいますか」と尋ねる。その声には信頼も温かみもなく、ただ孤独な少女が覚えた社交辞令をそのまま音にしたような空虚さがあった。フェリックスは「もちろんです」と穏やかに答え、彼女が夏子に付き添われて退室するまで、その背中を静かに見送った。
部屋に一人残ったフェリックスは、窓へ歩み寄り、外を歩いていく美和子の小さな後ろ姿を一瞬だけ目で追った。彼の胸の内には、彼女の警戒心の強さがむしろ好材料だという冷静な分析があった。簡単に心を許さない相手ならば、こちらの偽装も長く持つ。そして、彼女が周囲を探るほどに、彼女自身もまた何かから逃れようとしている証拠でもある。フェリックスは弓をケースにしまい、静かに音楽室の鍵を閉める。廊下に響く自分の足音だけが、妙に遠い警鐘のように聞こえていた。