フェリックスは翌朝、聖セシリア女学院の正門前に立っていた。黒いケースを片手に提げ、濃紺のスーツに身を包んだ姿は、どこから見ても若い音楽講師そのものだった。ただし、その顔は素顔ではなかった。白銀の髪は黒く染められ、琥珀の瞳は暗い色のカラーコンタクトで覆い隠されている。彼は「コンノ」として、目の前に聳えるゴシック様式の校門を見上げた。尖塔を戴く石造りの門柱には蔦が絡まり、門の向こうには、曇り空を背にした重厚な校舎が静かに横たわっていた。朝の光は弱く、敷石の上に落ちる影はすべて青みがかって見える。フェリックスは呼吸を整えると、門をくぐった。
事務室で待っていたのは、白髪混じりの短髪をきっちりと撫でつけた小柄な女だった。眼鏡の奥からフェリックスを見定めるように数秒間眺め、それから酒井夏子は立ち上がった。彼女の指先が差し出したのは、分厚い校内規則の冊子だった。
「ようこそ、コンノ先生。こちらが本校の規則になります。特に三輪子さんのレッスンに関しては、わたくしの許可なく校内の他の区域へ立ち入ることはお控えください」
夏子の声は丁寧で、しかし隙がなかった。彼女はフェリックスに背を向け、廊下を先に歩き出す。その歩調は規則正しく、磨き込まれた板張りの廊下にヒールの音だけが奇妙に大きく響いた。フェリックスは半歩後ろを歩きながら、彼女の背中を観察していた。背筋は伸び、両肩は水平で、片時も気を抜いていない。堺宗一郎の協力者として、美和子を監視する立場の女だ。フェリックスは冊子を開くふりをして、廊下の構造と窓の位置を順に記憶していった。
「レッスンは毎週火曜と金曜の午後三時から、音楽室で行っていただきます。時間の変更や延長は一切認められません。三輪子さんの体調に合わせて、途中で中止になる場合もあります。その際は必ずわたくしに報告してください」
「承知しました」
フェリックスは低く短く答えた。夏子は一度だけ振り返り、フェリックスの眼鏡の奥を覗き込むような視線を寄越したが、すぐに前を向いた。彼女はふと足を止め、廊下の突き当たりにある重い扉の前で立ち止まった。扉の上部には、聖女のレリーフが刻まれている。夏子は鍵束から一本の鍵を選び、静かに差し込んだ。
「こちらが音楽室です。三輪子さんは中でお待ちです」
フェリックスは扉の向こうに意識を向けた。耳を澄ますと、かすかに、しかし確かに、不安定な呼吸の気配が聞こえる。彼は自分の表情を、穏やかな講師の仮面で覆った。夏子が扉を開けると、窓から差し込む弱い光が、広い室内にぽつんと座る一人の少女を照らし出した。
彼女は、花のように小さく見えた。艶やかな黒髪が絹のように背中へ流れ落ち、繊細な耳元へかけられた一房が、白い肌の輪郭を柔らかく縁取っている。大きな丸い瞳は潤んでいて、フェリックスの姿を認めると、その両手が膝の上で小さく跳ねた。彼女は立ち上がりかけて、ためらい、結局そのまま椅子に座り直した。指先がスカートの裾を何度も握り直している。
「初めまして、三輪子さん。本日からご一緒させていただく、コンノです」
フェリックスは一歩だけ近づき、深く頭を下げた。顔を上げたとき、彼は美和子の手元を見ていた。指先は白く、細く、今にも折れてしまいそうなほど繊細で、わずかに震えている。彼女の唇は何かを言おうと動いたが、声は出なかった。代わりに、彼女は小さく頷いた。フェリックスはその震えを観察データとして記録し、それ以上でも以下でもないと自分に言い聞かせた。
「はじめまして……コンノ先生」
その声は、消え入りそうなほど細かった。フェリックスは夏子が退出する気配を背後に感じながら、ケースを開けてバイオリンを取り出した。わざとゆっくりと、彼女を急かさないように。窓の外では、曇り空から一筋の光が漏れて、床に置かれた譜面台の脚を白く染めていた。
「少しだけ、お話ししませんか。レッスンの前に、三輪子さんがどんな曲が好きか知りたいんです」
美和子は顔を上げ、フェリックスを見つめた。その瞳の奥には、警戒と、それとは別の、何かに縋りたいような色が揺れている。彼女はまたスカートの裾を握り、それから、ほとんど聞こえないほどの声で答えた。
「……小さい頃に、母が弾いていた曲が、好きです」
その言葉に、フェリックスは講師としての穏やかな微笑みを口元に浮かべた。胸の内では、この少女が任務対象であるという事実を、改めて冷静に確認しながら。彼の指先は無駄なく弓を準備し、心の奥底には何の波も立っていなかった。